「専門性」をめぐるジレンマ(論文「向精神薬の意味論」より)

2019年10月19日

誤解を恐れずに言おう。現代の治療において、患者はいかなる不快さも容認しない。医師が患者のためを思うあまり、あえて患者が不快に思うであろう提言・忠告を行おうとしても、患者はそのような暑苦しいパターナルな関わりを、「余計なお世話」と切って捨てるだろう。ある種の薬物がもたらす不快な副作用が、疾患の長期的予後において重要な役割をもつとしても、余程懇切丁寧なインフォームド・コンセントを行わない限り、受容されることはないであろう。このような状況下では、患者・医師ともに、治療を長期的展望をもっては捉えられなくなっている。相互の関係性にゆとりがないからである。また、治療には小さな失敗も許されない。失敗すると口コミですぐ伝わってしまう。またその失敗とは、医師の側から見た場合必ずしもそうでなくても、患者がそう感じたなら失敗だと認識されてしまう手合いのものである。

同様に、今の時代は治療の結果においてもスピードが求められている。苦難の道を同行二人で越えていくなどという治療におけるロマンなどそもそもない。長期にわたるプロセスが重要なのではなく、すぐさま現れる結果がすべてなのだ。後にも言及するが、たとえばSSRIのパキシル(注・本論では向精神薬を商品名で記す)。この薬物は「行きはよいよい帰りは怖い」という薬物の代表である。ともかく初期の服用感がとてもよく、重さがない。発動性をすみやかに上げ、明るさ・やる気をもたらす。人間の認知能力や記憶力を高める薬品や物質を指して、スマートドラッグと呼ぶことがあるが、患者間のパキシルについての認識もそのようなもので、とかく処方を望まれる薬物のひとつである。ただし、このところ次第に知られてきているが、この薬物には強い退薬症状が出ることがあり、止め際に不安焦燥を主とする不快な体験が伴うことが多く、それが「帰りは怖い」という所以である。

では、数多くの情報を股にかけ、医師やその処方薬をも相対化し、さらには精神科医の時代の“正義”という固陋なあり方をも軽やかに飛び越える患者は、もはや精神科医の「専門性」など期待していないのだろうか。実はそうとも言い切れないのである。今の患者は確かに、専門家顔負けに情報を有している。そして、服薬の当事者はほかならぬ患者であり、そのため服薬体験を有していない精神科医よりもより直接的な薬物についての知識を保有している。患者はあらかじめ自らの欲する薬物を医師に求めてくる場合さえある。しかし、精神科医は好みの処方薬を引き出す“打ち出の小槌”だと割り切っている患者は、まだ少数だろう。この期に及んでも、医師には何らかのサプライズ、プラスアルファを求めている。それこそが医師の「専門性」なのである。それが証拠に患者が自己診断した結果導き出した薬物を、患者の希望通りそのまま処方すると、患者は落胆しもう二度とその医師の前には姿を現さなくなるのである。

つまるところ、医師は薬物のソムリエのような役割を求められているのである。しかし一方で、精神科医はこのような役割を甘んじて受けることを承服しがたいと感じている。それというのも、患者自身が自己診断を行うことに深い憂慮があり、同時にその結果についても猜疑の念を抱いているためである。これまで蓄えてきた医学知識や臨床経験を一般化・抽象化したうえで、それらを臨床の場にフィードバックするという在り方で、患者のうちなる固有の病的体験を理解し、適切な治療的アプローチを考慮することこそ精神科医の本領である。しかし、言うは易く行うは難い。精神科医は各々、自己の診立てと薬物のマッチングについて強いこだわりがあるが、実際の臨床の場でそれを明晰に言語化できず、患者にうまく伝えられないことに苛立つことも多く、遂には患者とは分かりあえないものだとの諦めに終わる場合も少なくない。

熊木徹夫(あいち熊木クリニック<愛知県日進市(名古屋市名東区隣)。心療内科・精神科・漢方外来>:TEL: 0561-75-5707: https://www.dr-kumaki.net/ )

 

<※参考>

「薬物のばらまき」はなぜ起こるのか  ~<身体感覚>を導きの糸として~

「らしさ」の覚知とは(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)


臨床現場、混乱の原因となるものは(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)

初診時における精神活動(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)

治療戦略的プラセボ ~精神科薬物療法の目指す未来~

向精神薬は<時代の病理>を反映する(論文「向精神薬の意味論」より)

服用する根拠・処方する根拠(論文「向精神薬の意味論」より)

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