臨床現場、混乱の原因となるものは(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)

2019年10月19日

このところ、総合病院精神科外来や精神科クリニックにおいて、うつ病や躁うつ病の軽症の患者がよく訪れるようになってきたとは、つねづね喧伝されていることである。これは、精神科が世間的に敷居の低いものになったことや、実際に軽症うつ病・躁うつ病が増えてきたことなどがその理由とされる。

では軽症なら治しやすいのではないか、と考える向きが多いかもしれないが、実際はその逆になることが多い。うつ病は重症なものほど、自覚症状・他覚症状ともに一様なものとなり、ある程度症候が整った典型的なものとなる傾向があり、“個性的”になる余地はあまりない。その診療は定式化されており、それほど破格なことを試みる必要はない。もちろん治療経過が楽観視できるというわけではないが、精神科臨床の常識に則り、粛々と治療を行えばいいので、ある意味与しやすい。

しかし、軽症のものは訴えが実に多様である。それは、軽症であればあるほど、脳器質的・内因的色合いが薄くなり、その反面、患者の気質・体質が色濃くにじみ出てくるからであろう。

かつて、軽症うつ病が神経症性うつ病と呼び習わされていた時代がある。これは患者自身がある心身の失調を自覚し、それに注意を差し向け拘泥することで、その患者独特の特異な自覚症状が立ち現れてくることからも理解できることである。病像が“個性的”に表現されるためには、若干の身体的余裕がなくてはならないのである。これは何も精神疾患に限ったことではない。

このように症状の発現が多様化し個性的になったこと、これは精神科臨床の現場を混乱させた一因であることは間違いない。

またある患者に遭遇し、その時点での横断的診断を下すこと、すなわち現存する症候の数々を並べてまとめ上げることのみが重要というみなしを与えてきたのは、DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:アメリカ精神医学会による精神障害の診断と統計の手引き)である。このDSMという操作的診断基準があらゆる場面で強迫的に適用されるようになったことにより、ただひとつの病態でも病因論には基づかない便宜的かつ複合的な診断がつけられるようになったため、患者の病態とその全体像がかえって分かりにくくなった。

そしてDSMが隆盛を誇るようになってから30年ほどの間に、技法として緻密に磨き上げられてきた「徴候空間=微分回路的認知」が診断的根拠を失い、精神科医の感性、ひいては精神科臨床の土壌自体がやせ衰えてきた。

症状があまり推移せず固着しているような疾患(例えば、メランコリー親和型うつ病など)を取り扱うのであれば、それでもよかった。しかし、その状況の間隙を縫うかのように、双極2型障害が表舞台に現れ、精神科医と患者の双方を翻弄しているのが現状である。

因果論を徹底的に排除したDSMは、いくつかの偏頗な精神科治療を是正したかもしれないが、精神科医個々人の何かを嗅ぎ取る力を著しく減弱させ、結果として現場の混乱を増幅させる一因となった。

 熊木徹夫(あいち熊木クリニック<愛知県日進市(名古屋市名東区隣)。心療内科・精神科・漢方外来>:TEL: 0561-75-5707: https://www.dr-kumaki.net/ )

<※参考>

「薬物のばらまき」はなぜ起こるのか  ~<身体感覚>を導きの糸として~

「らしさ」の覚知とは(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)

初診時における精神活動(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)

治療戦略的プラセボ ~精神科薬物療法の目指す未来~

向精神薬は<時代の病理>を反映する(論文「向精神薬の意味論」より)

「専門性」をめぐるジレンマ(論文「向精神薬の意味論」より)

服用する根拠・処方する根拠(論文「向精神薬の意味論」より)

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