2013年頭の辞:あほやなあ

2019年10月19日

<あいち熊木クリニックに通院中のみなさまへ>
(※お年賀頂戴しました方、ありがとうございます。本状でもって挨拶に代えさせていただきます)

[  年頭の辞:  「あほやなあ」  ]

明けまして、おめでとうございます。

みなさんの中には、いろいろな方がおられると思います。
これまで、思い通りの順調な道筋をたどってきたのに、ひょんなことから病を得て、人生に急ブレーキがかかり、途方に暮れてしまっている人。
紆余曲折を経て、やっと学校を休んだり、会社を休むことができ、ほっとする反面、「このままでいいのか」と自問自答を繰り返す日々をおくり、心底休まることのない人。
端から見るととても元気そうで、「とても病気の人に見えない」といわれ、多少嬉しい気持ちはあるものの、一向まわりから配慮されることがないため、再度発作が起きないか内心ビクビクの毎日を送っている人など。

その病気の軽重によらず、こころのうちに何らかの葛藤を抱えて過ごしておられる方が、実に多いこと!私は日々の臨床でそのさまに接し、次のような例え話を持ち出すことがあります。
「あなたは、毎日名古屋から大阪に新幹線出勤をするサラリーマンだとします。毎朝8時に名古屋を出る新幹線に乗れば、遅滞なく仕事開始時刻に到着できるのですが、あるとき寝坊してしまい、一時間後の9時発の新幹線に乗ることしかできなくなってしまいました。さあ、あなたは大慌て。一時間も遅れては、あの厳しい上司からどれほどの叱責を受けることになるか、考えただけでも動悸が止まりません。では、9時発の新幹線に飛び乗ったあなたは、車中でどう過ごすべきでしょう。“たいへんだ、たいへんだ”と車中をかけずり回りますか?そんなことしたところで、一分たりとも新幹線の到着が早まるわけではありません。そんなときは、上司のことなど考えずに、ただその車中での時間を満喫できるなら、それが一番いい。車窓を流れる景色に目をやるも良し、好きな本に没入するも良し、しばしまどろむも良し。」

これを聞いて、あなたはどうお感じになりますか。人生においては、誰しも抗えず、ただ受容するしかない運命的なことにしばしば遭遇します。その究極は死。誰しも死は免れないのですから、生きている間、「自分は死ぬんじゃないか、死ぬんじゃないか」と怯えつづけることは、新幹線の車中を走り回ることにも似て、貴重な人生のおける大いなる無駄といえるのではないでしょうか。とはいえ、人間は誰しも目先の不安に振り回される弱い存在、無駄と“わかっちゃいるけどやめられない”非合理な存在です。

「袖触れ合うも他生の縁」という言葉があります。私は、みなさんの長い人生の中で、ほんの一瞬すれ違うだけの存在なのかもしれません。でも同じく避けることのできない実存の苦しみを抱えた人間として、ほんの少しでもみなさんの後ろ支えができれば、と考えています。私は京都生まれですが、京都人はしばしば親しき人に「あほやなあ」と言います。いうまでもなく、これは単に相手を侮蔑する言葉ではありません。自らを含めた人みんながどうしても犯してしまう愚行に対し、憐憫と諧謔そしていささかの慈しみを込めて、ため息混じりに発する言葉なのです。私もまた、みなさんの人生に寄り添うなかで、時に「あほやなあ」と苦笑いを浮かべながら、みなさんの生き様におかしみを込めて接しつつも、しかしやはり共に歩いて行くだろう、そしてそれもまた幸せな時間なのかもしれないと考えるのです。

2013.1.1.
熊木徹夫(あいち熊木クリニック<愛知県日進市。心療内科・精神科・漢方外来>:

TEL:0561-75-5707: https://www.dr-kumaki.net/ )

<※参考>

書評『心はどこまで脳なのだろうか』(兼本浩祐著:医学書院)(雑誌「こころの科学」より転載)

キラキラネームは「オンリーワンの呪縛」 ~名前が孕む”言霊”について~


ギプスをつけて100メートル走

”都会のど真ん中にある精神科病院で、その気配さえ感じられぬ病院”が孕む問題

“隣のファシズム”こそ本当の恐怖

~「受験道」、そして「方便としての受験」~

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