美容整形と醜形恐怖症

2019年10月19日

現代の美の“魔術師”美容整形外科医自身が醜形恐怖症(醜貌恐怖症・身体醜形障害)になった理由|美しくても逃れられない女性ナルシシズム由来の苦しみ

これまで20年の診療のなかで、醜形恐怖症の患者さんにも数多く接してきました。
醜形恐怖症とは、別名身体醜形障害(Body dysmorphic disorder ; BDD)あるいは醜貌恐怖症ともいいます。
自己身体(特に顔)が醜いのではないか、それゆえに誰かに嫌がられていないか、馬鹿にされてはいないかと極度に恐れるのが、その主症状です

中でも、印象深いのは、数人の美容整形外科ドクター(女性)です。(※これから話す事柄は、その精神病理においては忠実に抽出していますが、個々の方々のプライバシーに配慮し、細部の改変を行っています。どうぞご了承ください)

皆目を見張るほどの美人で、一見「何の問題があろうか」と訝るほどでした。
しかし、詳細を訊くと、それぞれに入り組んだ事情を抱えており、なかには「うーん」と腕を組んで考えこんでしまうようなケースもありました。

皆さん、開業美容外科医ですので、自らが”広告塔”になる必要がありますから、”美しくある”ことが一つの使命ともいえます。
それゆえにか、自らの顔に再三メスを入れてきた、という方がおられます。
確かに、自身の体をベースに”美の飽くなき探求”をした結果、この成果を多くの美に苦しむ患者さんたちに還元する、というストーリーなら、美容外科医になった経緯は理解しやすい。

しかし一方で、自らの顔に一切メスを加えたことがないという方もおられるのです!
それでいて、醜形恐怖症?
これはどういうことなのか。

前者、自身が何度も繰り返しオペされてきている方を、A子先生とし、後者、自らが一度もオペされたことがない方を、B子先生とモデル化(数人の方々の合成)してみることとします。
両者の事情を比べてみましょう。

A子先生は、某医科大学卒業後、研修を終え、まずは小児科医を目指しました。
真面目でコツコツ業務を行う先生は、とても勉強熱心で、患者さんからも多くの信頼を得ていたといいます。

その一方、大学卒業時に一斉に同じ大学の男子学生と結婚した女性の同期は、A子先生から見ても皆美人で、
「医学部でいくら頑張ったって、結局、キレイな子は皆結婚して家庭に入るのね」と思い、少し侮蔑的な目で見ていたといいます。

ただ、昔おつきあいしていたC君が、友人でこれまた美人のD子さんと結婚することになったと聞いて、これには少しショックを受けました。
「結局、私は選ばれなかった…」と少し悔しい気持ちがしたけれど、「そんなこと関係ない」と即座に打ち消そうとしたといいます。(「これが、美容外科に赴くきっかけになった、とは後で気づいた」。A子先生の述懐です)

毎日夜遅くまで働き、くたくたになって帰る日々。
あるとき、信頼関係ができていると思っていた患者さんの親から訴訟されそうになり、「こんなに一生懸命やってきたのに、認めてもらえないのか…」と失意のどん底に落ちたといいます。

そのころから、「少しだけならいいか」と思い、美容外科に行き、ずっと気になっていたダンゴ鼻をちょっぴり形良くする決意をしました。
それから、何か嫌なことがあるたびに、”自分へのごほうび”として、美容整形を繰り返していきました。

いつのまにか、小児科への執着は消え失せ、自身の美の追求のみ先鋭化していた現状に気づいたといいます。
それならば、この熱意・執着を、そっくりそのまま美を求める患者さんのサポートに振り向ければ、充実した後半生が過ごせるのではないか、と考えるようになり、それから美容整形外科医へ転身を遂げたのでした。

A子先生自身、自分が醜形恐怖症であることには、とうに気づいていました。同じく醜形恐怖症患者さんが多く集まるであろう美容整形外科であるなら、シンパシーを持って仕事ができるだろうし、また患者さんたちにも同じくシンパシーを持ってもらえそうだ。
それはその通りであるし、なかなか説得力がある。

しかし、A子先生はその後も「美容整形依存」が止まらず、どこまで自分の顔を信頼おける美容外科医にさわってもらっても、「まだまだこれでは満足できない」と思うのです。
これは美に貪欲になっているように見えますが、そうではなく、「やはり醜形恐怖が果てしなく追いかけてくる」のだそうです。

どこまでやっても苦しみから開放されない
これは多くのポリサージャリー(何度も何度も手術を受けること)に陥っている醜形恐怖症女性たちと、まるで同じ状況です。

顔は、ひとたびいじりだすと止めどない
そういう意味では、美容整形外科医は因果な仕事ともいえます。

一方のB子先生はどうか。
こちらは、子供の頃から「本当に美人だ」と褒めそやされ、大きくなるにつれ、数知れぬほどの男性に求愛されたのだといいます。
高校卒業頃の写真を見せてもらいましたが、なるほどそうかもしれない…と思わせるものでした。

しかし、当の本人は随分冷めた目で、自分を見ていました。
「回りのみんながそういうなら、自分は美人であるのかもしれない。ちやほやされるのも、それゆえだろう。
でも、仮にそうだとするなら、この美を何らかに事情で失うと、誰からも相手にされなくなるだろう。
もしそうなったら、どうやって生きていこう。これを保持し続ける努力がずっと欠かせない…」

天から授かった自身の美が自尊感情を高めるのに役立つことはなく、むしろ桎梏となり自身を苦しめ続けたのでした。
実際B子先生は、「自分がキレイだと思ったことなど一度もない」といいます。

確かに、美は主観的なものです。

また、集団で美のコンセンサスは形成されうるものの、それとて絶対的なものではありません。
自身の美しさとは、自らの確信に裏打ちされていなければ、存在し得ないのです。

キレイでないはずの自分が、キレイで在り続けるための努力。
それが何と空疎で、息苦しいものか。

B子先生は、美から目を逸らそうとします。
医学部を出ましたが、当然美容整形外科など目指しません。
消化器内科医として研鑽を積みます。

幾人かの男性とお付き合いもしましたが、プロポーズされそうになると、必ず自分から別れを切り出します。
それは、自分の顔が好きになって、結婚までしようとする人々だからです。
どうしてそんな重大なことを決めるのに、顔が根拠となりうるのか。
そんな人とは決してこの感覚のズレは共有できないだろうし、そもそもそこから未来が見えません。

しかし、そんな彼女も次第に疲れてきました。
一内科医として地道に生きていこうと思ったのですが、やはり自分は「美意識過剰」なのだと思い至るようになりました。

美から逃避しようとし、結局美に絡め取られる人生。
美しくなりたい人の気持ちは分からないが、美しさを失う恐れだけはよく分かる。
私のような人たちもきっと、美容外科であれば沢山やって来るはずだ…。

そこで、居直って美容整形外科医になりました。
開業してから、施術するたびに患者さんたちに言われること、それは「先生って、ホントにキレイ」。
キレイであることは、商売柄都合がいい。
だからそれはそれでいいのだが、この患者さん、どういうつもりでそのような言葉を発するのかは、いつも気にかかる。

「きっと先生も、たくさんお金かけて、顔を治してきたんでしょ」
「私も先生と同じようにキレイになりたい。先生と同じ方法を使って」……。

「顔なんて、一度もいじったことはないのよ」っていうのは、大人げないし、そもそもそのこと自体が美容整形否定、すなわち自己否定になってしまう。まあどうとられてもいいが…。
でも、あれこれ考えると本当に疲れてしまう。

最近、老いを感じてきている。
美しさは分からないままなのに、老いだけは、それによる美の衰えだけは自覚できる。
それはとても怖いこと。
ひょっとすると、死よりも怖いことかもしれない。
これも醜形恐怖症といっていいのでしょうか。
これからも患者さんの注視に耐え続けなければいけないのに、この顔、もってくれるのでしょうか…。

美容外科医という美をコントロールできる現代の“魔術師”は、自身が美しかろうとそうでなかろうと、自らの顔とどのように対峙し折り合うか、葛藤を抱え続けてきた人が多いのは間違いないでしょう。
他者や時代が集合的に規定する”美”というものに翻弄されつづける現代女性は、ナルシシズムの保持が本当に難しく、容易に醜形恐怖症に陥る可能性があるのです。

※以下のブログ文章を、併せてご参照ください。

醜形恐怖症(醜貌恐怖症・身体醜形障害)治療から垣間見える、女性のナルシシズム生成の危うさ|鏡と化粧の意味

美において万能であるはずの美容整形外科医の苦悩の在り方が、それを示唆しているといえそうです。

<※参考>

摂食障害(過食症および拒食症<神経性大食症および神経性無食欲症>)治療のキモ ~ただのダイエットでは済まない、あなたのために~

美の競演のうちに潜む摂食障害(拒食症と過食症)

「現代型・自尊感情の低落」とは何か ~摂食障害(過食症・拒食症)・醜形恐怖症・自己臭恐怖症治療から見えてくるもの~

醜形恐怖症(醜貌恐怖症・身体醜形障害)治療から垣間見える、女性のナルシシズム生成の危うさ  ~鏡と化粧の意味~

トップアイドルという苦悩と憂鬱 (精神科医・熊木徹夫の公開人生相談)

『クローゼットから溢れる洋服』 (「買い物依存症」についての臨床相談)

『死んでしまいたいくらい、寂しくて寂しくて』 (<自尊感情が低落している方>への臨床相談)

依存症治療はもはや、「対高度資本主義社会」の様相を呈している

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