故・岩田勲先生との洛星高校演劇部での思い出(追悼)

2019年10月19日

<故・岩田勲先生との洛星高校演劇部での思い出(追悼)>

 

2015.1.9.の朝、岩田勲先生の訃報が入ってきました。

その突然の悲しい知らせに驚いたとはいえ、これまでに全く何も心当たりがなかったわけではありません。

もちろん、実際にどのような事情で亡くなられたのか、お身内の方以外、存じ上げないことですので、軽はずみなことは申し上げられません。

しかし、これまでの先生の闘病について折に触れ聞かされてきた身とすれば、

深い寂寥の思いとともに、「これでやっと楽になられたろうか」という安堵の気持ちもあるのです。

そして、三十有余年前の、ある日の出来事に思いを巡らせました・・

 

岩田勲先生は、私の母校・洛星中学校・高等学校の元英語教諭で、演劇部顧問でした。

洛星中学に入学したばかりの私は、小学校時代の外向的な性格が鳴りをひそめ、やや内向的でどんなところでも読書ばかりしている少年でした。

当時別の部に属していましたが、まったく身が入らず、勉強もしかり。

毎日、学校の行き帰りに、北野白梅町のオーム社という本屋に立ち寄り、文庫本を一冊手に入れる。

通学途中でも自宅でもトイレでも読書し、毎日一冊ずつ本棚に文庫本が増えていくという生活でした。

その頃、荒れていたわけではありませんが、何だか覇気がなかったように思います。

当時を思い出しても、あまりこれといった記憶がなく、あっても薄灰色のぼやけたイメージしかありません。

 

中1の秋、その当時の担任教師の勧めで、何気なしに学年演劇に出ることになりました。

確か、名もない端役だったと思います。

どのように演じたか、覚えていませんが、それほど情熱を持っていなかったのは確かです。

出番があまりに少なくてやることがなく、舞台ソデでこれまた端役の一人と将棋に打ち込んでいたのですから。

 

中1の冬のある日のこと。

英語を教えてくださっていた岩田先生から、突然職員室に呼び出されました。

自身思い当たることがなく、内心少しの動揺を覚えながら、職員室に入っていったことを覚えています。

岩田先生は開口一番こう呼びかけてきました。

「熊木君、舞台に立つ気はないかね!」

何のことやら?と思いました。

私の気の動転をよそに、岩田先生は低く伸びやかに響く声で、立て続けに話されました。

・・・学年演劇の時からずっと注目していたんだよ。

いつ声をかけようか、迷っていて今になった。

次の舞台では君がぜひ必要だ、等々・・・

僕が演劇部?!

嫌とかそういうものではなく、何かとても不思議な気持ちでした。

それまで、自分の人生設計の中に決して入ってこない要素のように感じていました。

「今すぐ結論が出なくて当たり前。春になったら結論が欲しい」

そう言われ、その場を失礼しました。

 

こちらの道に進むことで、最早引き返すことができなくなるのではないか。

そのような漠然とした恐怖があったようにも思います。

でも、こんな僕に情熱を持って接してくださった岩田先生に、次第に惹かれるようになっていきました。

「岩田先生のお言葉に賭けてみよう」

まだ声変わりもしていない少年の私は、そう胸に誓いました。

 

それから半年が過ぎました。

洛星中高の文化祭で、本当に私は、舞台の上にいました。

その年の演劇部の演目は『天に啼く山羊(やぎ)』。

私は、主役の太一という少年。

文化祭前は、先輩の高校生たちが目の色を変えて、一つの演劇を作り上げていきます。

時にはエキサイトして、激しいけんかになることさえある。

こういった多くの先輩たちの、そして彼らを率いる演劇部顧問・岩田先生の情熱に支えられた作品に関われている歓びに胸が震えました。

「岩田先生を喜ばせたい・・」

その密かな思いを抱いて取り組んだ初めての舞台は、最高のかたちで終演を迎えました。

緞帳が降りきった時、これまでに感じたことのない心地よいしびれが脳天を貫きました。

「ここに来て、良かった」

そう思いました。

 

それから高校最後の引退までに、8つの劇でキャスト(演技者)を演じました。

振り返ってみるに、最初から最後まで”へぼ役者”でしたが、そんな私に場を与えてくださった岩田先生に本当に感謝です。

また、高校演劇部で部長に任命されてからは、主に演出(映画でいうなら監督のようなポジション)を担当しました。

先輩・同輩・後輩いずれにも恵まれ、とてもいい思い出を積み重ねました。

 

(ただ、私がいうのも何ですが、演劇部員は本当に個性派(曲者?)ぞろいでした。

「木の癖組は人組みなり。人組は人の癖組みなり」と言ったのは、薬師寺金堂・棟梁 西岡常一。

その人のもつ癖を適材適所にはめること、その癖が”暴れ”だしたらその人物の言い分を聴きながら取り収めること。

今に至る人心収攬術は、ここで会得しました。

演劇部員がまとめられるくらいになれば、どんな組織でもまとめられる、そう感じたものでした。

しかしよく考えてみれば、これは私のオリジナルの技ではなかった。

そう、岩田先生が陰になり日向になりやられてきたことを、私が見よう見まねでやっていただけだったと、今気づきました。

岩田先生には押し付けがましいところがまるでなく、いつも柔らかい。

でもその人柄から、頼まれた人は「よし一丁やってやるか」と奮い立つのです。

でも、これは名人芸の域。

私などがまねたところで、同じ境地に達せられないのは、言うまでもないことです)

 

そして、引退の舞台もまた『天に啼く山羊』でした。

浮浪者・捨松として、舞台上から緞帳にふさがれていく大勢の観客の様子を見届けようとしたけれど、涙で霞んで見えなくなりました・・

 

寝ても覚めても演劇、という中学高校時代を過ぎ、一浪の後、名古屋市立大学に入学しました。

岩田先生は名古屋生まれ、母校の南山大学も近い、ということで、大学時代何度かお話しする機会がありました。
先生は、名古屋のことを訊いて、よく懐かしまれました。

 

それから更に月日が経ち、私は精神科医になりました。

そのことを一番喜んでくれた恩師が、岩田先生でした。

「君は、皆から頼られる人だったから、精神科医がとても向いていると思う」

お世辞でも、先生にそう言われると、とても嬉しいのです。

 

精神科医になって、がむしゃらに臨床をしてきました。

ただ、好きで選んだ仕事とはいえ、楽な道行ではありませんでした。

喘ぎ喘ぎながら”坂道”を登ったこと。

”崖”から落ちるか、と冷や汗をたらしたこと。

そんなことは、枚挙に暇がありません。

 

幸いいつでもどこでも、先輩同輩後輩、職場の同僚、患者さんなど良き人に恵まれました。

でもあるとき、ふと気づいたのです。

私には、良き人と出会える運があるのは間違いない。

しかし、そういった人々とうまく縁がつなげているのは、演劇部時代の”素養”のおかげではないのか。

 

診察室は、さながら”舞台”です。

私は”精神科医”という役割を粛々と演じ、”患者さん”という次々に変遷するドラマの主役に対峙し続ける。

患者さんの人生は、あきれるほど多様で、まさにドラマというに相応しい。

20年臨床を続けてきた私でも、いまだ驚きの連続です。

(これに比べれば、TVドラマなど退屈で見ていられません)

 

もう一つ、付け加えておくべき精神科医の大切な役割があります。

それは、演出家でもある、ということです。

かつて精神分析家のハリー・スタック・サリヴァンが、社会学の方法論を援用して述べたのは次のようなことです。

「精神科医の仕事は、関与しながらの観察 (participant observation)でなくてはならない」

すなわち精神科医は、患者さんの関与者(治療者。演劇になぞらえるならキャスト)であると同時に、治療の場においての観察者(場の構成者。私がかつて書いたことがある「鳥の目」。ひいていえば演劇における演出家)でなくてはならない。

驚くべきことに、その双方について稽古をつけてくれたのは、他ならぬ中学高校時代の岩田先生だったのです!

なんという偶然、いやなんという慧眼!

 

私はこれまで、人生幾度と無く、こういった岩田先生の凄さに感じ入ってきました。

そして、若い人を教育することの可能性に限りない期待を感じ、またその責任に粛然と襟を正してきたのです。

 

岩田先生から教えていただいたことはあまりに多く、今その存在が眼前から消え去られたという事実に、私はまだ呆然と立ち尽くしたままです。

しかし、先生の教育者としての思いを引き継ぎ、私流に咀嚼し、次の世代を導く責務を果たさなくてはならない。

キリスト者の岩田先生が、神のご加護の元、安心して眠りについていただけるように。

 

そして先生。

あなたの抱いておられた思いの一部を、私が引き継ぎ斃れずに進んでゆけますよう、どうか天から見守っていてください。

 

熊木徹夫

(あいち熊木クリニック院長 www.dr-kumaki.net/

あいくま心理カウンセリング代表 www.aikuma-shinri.com/ )

<※参考>

2015年年頭の辞: 「やっと、間に合った」

2016年年頭の辞: 「三郎おじいさんのフクロウ」

故・鈴木茂先生を悼む

ありがとう、我が青春の原節子

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