2016年年頭の辞: 「三郎おじいさんのフクロウ」

2019年10月19日

<あいち熊木クリニックに通院中のみなさまへ>
(※お年賀頂戴しました方、ありがとうございます。本状でもって挨拶に代えさせていただきます)

明けまして、おめでとうございます。

新年を迎えるに際し、私がこのところ、ずっとこころに留めていることについて、お話ししたいと思います。

私は、木造りのものが大好きで、
それゆえあいち熊木クリニックも、壁から天井まで、吹き抜け2階全面が杉貼りになっています。
各所に配したものも木彫品が大部分で、当院を訪れたことのある方は、
特に熊とフクロウのものが多いことに気づかれると思います。
木彫品は、見ているだけでも、触っているだけでも、全く飽きることがありません。

そして、診察室「いちょうの間」中央にあるいちょうのセンターテーブルに鎮座する2羽のフクロウについても、よく存じておられると思います。
もちろん、これもまた木彫りのフクロウです。
いずれも、お迎えする患者さんに、貌を向けています。

ひとつは、槐(えんじゅ)というとても硬い木でできたフクロウ。
もうひとつもフクロウですが、これはオンコ(イチイ)の木からなります。

これら2羽は、私のマスコットとして、いつもそばに居てくれています。
時々、子供のおもちゃになりますが、コレ、触りたくなる気持ちが私にもよーく分かります。

ところで、まるで佇まいの異なるフクロウの彫り物ですが、実は、同じ作者の手になる物。
そして、これら2羽のフクロウがあいち熊木クリニックへ到来するのには、12年間の懸隔があったのです。

12年前の夏、私は道東(北海道東部)へ旅に出ました。
定番の知床半島や摩周湖・屈斜路湖などはもちろん回りましたが、もう一つ大きな目的があったのです。
それは、大きなオンコの彫り物を自宅へ持ち帰ることでした。

そのころ、私は木彫の蒐集に明け暮れていました。
もともと、無垢の木が大好きな私は、その貴重な銘木に職人が心血を注いだ彫刻というものに、魂を吸い寄せられていました。

例えば大学時代より好きでよく通い詰めていた屋久島では、大阪から島へ移住したという彫刻家に偶然遭遇し、
そこで彼がライフワークとして彫り込んできた数多くの屋久杉の壺を見せてもらいました。
ご存知のとおり、屋久島では、現在年季の入った杉の伐採は禁じられています。
しかし、江戸時代に幕府の命で切り倒されたまま放置された屋久杉が、いまだ腐らずにあり、取引されているというのです。
(年間降水量10000mmともいわれる屋久島にあって、何百年も腐らずにあるとは驚異的なことです!
それもそのはず、屋久杉は杉といってもその辺にある普通の杉とは、全く異なるものです。
年輪は極めて密に入っており、まるで樹脂が固まったような硬さとツヤがあるのです)
屋久杉の壺はどれもキラキラに輝いていました。
各々に大層高い値段がつけられていましたが、それぞれにしかるべき理由があり、彼からその説明を受けました。
彼の静かな情念に触れていると、私もあとからあとから質問が止まらなくなりました。

あれこれ”木彫談義”に花咲かせ、木彫品の魅力・良し悪しの判別法まで教えてもらい、最終的には値札がなくても値段が分かるほどの”目利き”になったほどです。
そして、気がつけばそこで4時間も過ごしていたのです。
(あのときの職人さん、通りすがりの若造の酔狂にお付き合いいただき、本当にありがとうございました!)
にわかではありますが、”目利き”になった私は、それらの壺から二つを厳選し、両脇に抱え、名古屋まで持ち帰りました。

いい彫刻に巡りあうことは、ただいい物に出会うというだけの意味ではありません。
職人の魂そしてその人生に、向き合うことになるのです。

ところで、なぜ私はオンコの木彫を切望していたのか。
私は、オンコのあの木目が細かく、飴色に輝く木肌がとても好きなのです。
岐阜県高山にも、有名なイチイの一刀彫がありますが、私は個人的に北海道のアイヌの末裔の人々が彫る素朴で荒削りなオンコ細工が好みです。
オンコは木目の細かさが示す通り、大変成長の遅い木で、また北海道でも限られた地域にしか生えないため、今では大変希少な銘木になってしまいました。
それゆえ、大ぶりのいいイチイを用いた彫刻もとても少ないのです。

道東でのオンコ彫刻探しは、相当に難航しました。
なかなか情報が得られないのです。
昔はたくさんいた職人も、不景気と老齢のため、大方やめてしまった、とのことでした。
それでもなお、執念く探していると、ある人が教えてくれました。
「川湯温泉に、伝説の彫り師が居る」と。

居てもたってもいられず、そこへ飛んでいきました。
それは「栗田民芸店」といい、場所は屈斜路湖畔になります。
到着したのは夜、もうとっぷり日も暮れて、夏といえど道東はじんわり冷えました。

店の入り口には、顔いっぱい立派な白髭に覆われたおじいさんが、あぐらをかいて座っておりました。
これがこの店のあるじ、栗田三郎さんです。
初対面なのにそうと思われない、何とも懐かしい気持ちにさせられるような笑顔で迎えていただきました。

私は、店に置かれている木彫に一方ならぬ興味を示すと、三郎おじいさんはまるで久しぶりに帰ってきた息子に話すように、ひょうひょうと自らが彫った作品について、語ってくれました。
各々の作品に込めた意図、そして”この彫刻は簡単そうに見えるが実はとても難しい”などといったような体験談など、ざっくばらんに。
私は、その語りと、温かい彫刻が佇む空間に、どんどん魅入られていきました。

ひとつ、目が止まり、吸い寄せられたまま離れられなくなった彫刻がありました。
これは、大きなオンコが丸太のまま輪切りにされたものがベースになっており、側面に木や蔦が這うように彫り出されており、さらには表側に2匹の熊が木登りして遊んでおり(これを見て「あっ、これはまさに”熊木”だな」と思いました!)、裏側にはフクロウがひっそり佇んでいる、そのような作品です。

私の当時の懐事情ではかなり厳しい値段でしたが、こんな躍動的で魅惑的な木彫にはそうそう出会えるものではないと自ら言い聞かせ、結局名古屋に持ち帰ることにしたのでした。
(この彫刻は現在、あいち熊木クリニックの待合の奥にある本棚の上に、恭しく置かれています。
飴色の木肌は、患者さんに触られることで、さらに光沢を増しています。
本院の守り神的な存在です。笑)

それから、もうひとつ目に止まったものがあります。
槐の原木がYの字に枝分かれしているところをうまく使って、一羽のフクロウがまるで槐の木の窪みにストンと収っているような、気取りのない素敵なものでした。
まるでこの槐に元から宿っていたような佇まい。

「これもぜひ売って欲しい」というと、三郎おじいさんは「これは売り物ではない。試作してみただけのものだからな」と照れくさそうに言うのです。
確かに他のフクロウと比べると、かなり荒削りです。
しかしそれゆえ、今にも槐から飛び出してきそうなリアリティに溢れているのです。
こんな木彫は他では見たことがなかったので、「どうか・・」と哀願しました。
すると「しょうがないね。あんただから譲ってやるか」と言って、結局かなり安い値段で譲り受けることになりました。
(これこそ今、いちょうの間の奥にいるフクロウです!)

槐というのも、とてもおもしろい木です。
昔は、数寄屋造りの床の間に磨き丸太としてよく用いられた銘木ですが、今の日本人の好みに合わなくなってきたためか、近頃はあまり見かけなくなりました。
硬すぎて細工が難しいこともネックとなっているのでしょう。
槐は白太(しらた)と赤身(あかみ。というものの、実際の色は灰色~焦げ茶)のコントラストが際立っており、この特徴を活かしたフクロウは三郎おじいさんの真骨頂だと感じます。
私が買い求めたフクロウもご多分に漏れず、この特徴の活かし方が見事です。
結局、これら2つの木彫を連れて帰ることになりました。

当時、まだ自宅が狭いマンションで、この名品の置き場に困りました。
陽の目を見たのは、あいち熊木クリニックを開院してから。
そこでようやく、フクロウや熊たちが、輝きだしました。
彫刻はやはり、人に見られそして触れられているうちに、”滋味”があふれるようになるものです。
今、彼らは幸せだと思います。

彫刻というのは不思議なものです。
それ自体は、一切形を変えないのに、そばに置いておくだけで、そこには居ない職人の魂に触れることができるのです。
職人の人生の一端を刻みつけたであろうその作品が、私に無言の問いかけをしてくることがある。
それは私の自問自答に過ぎないのかもしれないが、そんな気がするのです。
私のさまざまな人生の局面でそばにいる彼らが、なぜだかその時その時で違って見えてくることもある。
彼らはすなわち、私の人生の写し鏡でもあるのです。
そのような思索の過程で、作者である職人へ思いを致すこともまれならずある。
彼は何を考えていたのか。
今の彼はどうしているのか。

私は12年ぶりに道東への旅を思い立ちました。
なぜだか分かりませんが、また三郎おじいさん、そして彼の作品たちに会いたくなったのです。
そしてまた、栗田民芸店の前に降り立ちました。

再び帰還した栗田民芸店は、薄暗く、しーんと静まり返っていて、どこか寂しそう。
声をかけると、奥さんが出てきてくれました。
しばらく話して後、「三郎おじいさんは?」と私が尋ねると、「今春亡くなった」という返事が帰ってきました。

その瞬間、頭が真っ白になり、なぜだか「間に合わなかったか・・」という思いで一杯になりました。
「間に合わなかったか」などとは変な話です。
どのように亡くなられたか、知る由もなく、また闘病されているなどと仄聞し、急いで駆けつけたというわけではないのに、です。
でも私自身の勝手な考えですが、まだ三郎おじいさんは私を待ってくれているような気がしたのです。

店内を見渡してみると、三郎おじいさんの作品たち(息子さんの作品もありますが)が息を潜めてそこにいました。
よく見ると、かつて私が手にとって愛でた幾つもの作品が、まだそのまま置かれていて(不思議なことに、どれもこれも、よく覚えているのです!)、まるで12年前にタイムスリップしたかのようです。
たった一つの違いは、あるじがこの世にはもういない、ということ。
途端に、店全体が三郎おじいさんの形見の山であるかのように見えてきました。

私は慎重に作品を選定し、いくつかの槐の熊とオンコのフクロウを買い求めました。
三郎おじいさんの熊は、大変珍しい右吠え(右に向かって歩きながら吠えている)のもの。
これは、普通に修練を積んでも彫れないのだそうです。
(彼らは今、新しいカウンセリングルームである”くるみの間・さくらの間”に居ます)
フクロウも、やはりとても味があっていい。
端正な彫り味で、優しい貌をしている。
触りながら、眺めながら、今は亡き職人の魂の篭った彫り跡を感じる時、なぜだか震えを感じました。
三郎おじいさんと彫り跡を通じて共鳴したのかもしれません。
(このフクロウは、いちょうの間手前のものです)

今改めて感じます。
やはり、彫刻は不思議なもの。
最早あるじはなくても、その肉体の一部が、あるじの意志を孕みながら、永遠に残されるような気がするから。
よく考えると、これまでにたった一度しか会っていないはずの三郎おじいさんが、ずっと私のこころのなかに居たのは、彫刻という作品が介在していたからに違いありません。
私はまるで”形見分け”してもらったような気持ちになりました。

奥さんと息子さんから丁重なお見送りを受け、ここを再訪することは果たしてあるのかとぼんやり考えていました。
私にとってとても大切な場所。
でも、そっと封印しておきたいような場所。
今も、あの場所に再度立ったことに、現実感が伴いません。

いちょうの間で、日々診療に明け暮れるなかで、ふと2羽のフクロウに目をやります。
1羽目に出合うまでの臨床生活、2羽目を連れ帰るまでの十二年間、そしてこれからの私の臨床生活、すなわち私の人生・・・。
最も確からしいのは、彫刻として形を与えられた彼らであり、彼らに生を吹き込んだ三郎おじいさんも、彼らと対峙しつづける私も、そして彼らの傍らで私が互いの大切な時間を共有し続ける患者さんたちも、やはり無常な存在である・・・・。
フクロウたちは、そんな私をどうみているのか・・。

人生とは何か、というと、何か漠然とした感じになり、実感を伴いませんが、
2羽のフクロウと、私が彼らをトレースして想像を膨らませる三郎おじいさんの人生から、自らの人生を眺めると、いくらかその手応えを確かめられそうな気がするのです。
そして私は、彼らフクロウたちを前にしても恥ずかしくない診療をしていければ、と密かに願うのです。

熊木徹夫
(あいち熊木クリニック
<愛知県日進市(名古屋市名東区隣)。心療内科・精神科・漢方外来>
:TEL: 0561-75-5707:  www.dr-kumaki.net/ )

<※参考>

2015年年頭の辞: 「やっと、間に合った」

故・鈴木茂先生を悼む

故・岩田勲先生との洛星高校演劇部での思い出(追悼)

ありがとう、我が青春の原節子

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