「勇気と感動をありがとう」

2019年10月19日

こんにちは、熊木です。

2週間に渡るリオデジャネイロ・オリンピックは終わり、さらにパラリンピックに移行していきます。

4年に一度の特別な大会であり、その金メダルは最高の栄誉であるため、どんな競技においても、全身全霊を込めたプレーが展開されます。

そのため、普段触れることのないマイナー競技とされるものでも、そこで迸る選手の情熱に触れると、それを見る私たちも、こころの奥底の何かが揺さぶられずにはいられません。

ただ、これは私だけなのかもしれませんが、メディアにおいて、興奮気味に伝えられる次の言葉には、いささか引っかかりを覚えるのです。

「勇気と感動をありがとう」

いつ頃から使われだした言葉か分かりませんが、少なくとも私の幼少期には耳にしたことのない言葉です。

昔も、オリンピックの各競技の名シーンを再放送されることはありましたが、今日ほど繰り返し、脳裏に焼き付けられるほどに再放送されることもなかったように思います。

そのため、昨今のオリンピックについては、おそらく誰に尋ねても、「リオデジャネイロ・オリンピックといえば、■■」といった具合にかなりステロタイプな映像が頭に浮かび上がってくるのではないでしょうか。

これはいわば「オリンピックの共同幻想化」ですね。

ここで先述の「勇気と感動をありがとう」という言葉をほどいてみましょう。

“勇気”とは、一体誰の勇気か?

もちろんのことながら、選手の示してくれた勇気のはずです。

でもその”勇気”が、”すばらしい”というのであれば、観客である私たちの客観評価になりますが、“勇気”に感謝している、というのですから、私たちのうちなる勇気を奮い立たせてくれてありがとう、というのが本義なのかもしれません。

しかし、そうだとしたら、私たちの何に立ち向かおうとする勇気を指しているのか?

これは想像の域を出ませんが、(普段自信がなく元気がない)私たちの(自らの先の人生に立ち向かう)勇気ということになりましょうか。

本来は主体的な産物である勇気が、選手のプレーに感化されたおかげで、それに引きずられるかたちで、私たちも勇気が持てるようになった、という物語が底流しているのかもしれません。

しかしこの解釈、もしその通りなのだとしたら、私には今ひとつピンときません。

むしろメディアが強要する「オリンピックの共同幻想化」に、少し気味悪さを覚えます。

“感動”は、もちろん私たちの感動のことでしょう。

これは彼らのプレーを固唾を吞んで見守った私にとっても、しっくりくるものです。

4年間のすべてを一勝負・一瞬にかける選手達の、背景を成すそれぞれの物語に思いを馳せ、そして圧倒されるからです。

しかし、感動こそ私たちが最も主体性を放棄してはならないもののはずですから、“感動をありがとう”などと、日本国民一致団結して同じ思いを抱いているというような十把一絡げな扱いには、なんだか辟易してしまうのです。

もちろん、「勇気と感動をありがとう」という”奇妙な”言葉でありながらも、これまでメディアで連発されてきたのには、何かもっと深い意味があるのかもしれません。

ただそれは、日本国民自らが望んだがためにこういう状況になってきたのか、はたまた何か別の大きな意志が働いて日本国民をこのような方向に駆り立てているのか。

考えてみる必要があるかもしれません。

でも「何か全体主義的な臭いがぷんとする。のちのち、戦争への傾斜につながらなければいいが」などと言ったならば、きっと「野暮で陳腐な言い草」と唾棄されてしまうのでしょう。

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