「らしさ」の覚知とは(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)
「診断は治療の前提になるもの」という考えは、西洋医学臨床における基本テーゼである。たしかに、それでうまくいく場合はそれでも良かった。しかし、厳密な診断にこだわればこだわるほど、底なし沼に嵌り込んでしまったというのが、今の精神科臨床のおかれた状況なのではないか。これは、精神科臨床の理想的状況とはかけ離れたものである。では、診断にこだわらずに、何にこだわればいいというのか。私はここで、先述した洞察というものを問題としたい。
“精神科臨床における洞察”とは、診断と似て非なるものである。
診断とは、これまで長期間にわたり検証・集積されてきた精神科治療文化におけるコンセンサスと眼前の患者の容態とを摺り合わせる行為であり、そこで取り扱われる共通言語である診断名にこそ最も重要性がある。この診断が大切なのはいうまでもないが、“診断あっての治療”という言説に忠実であるあまり、そのような硬直的思考が治療を停滞させることさえある。最近は診断至上主義がまかり通っていて、眼前の患者の示す特異さ・独特さを顧慮せず、普遍的・一般的な説明を企てようと躍起になる傾向がある。そのため、かえって診断が治療において患者を疎外するという本末転倒な結果になるケースが多く見られる。
また診断は、実際の臨床現場にあって、仮説の域を出ないことが実に多くあることは銘記されていていい。その診断が治療においてうまく機能すると想定される場合においてだけ、限定的に利用する姿勢を持ちたい。
ところで、ここでいう洞察とは治療の参照枠となるもので、診断に比べ柔軟かつ融通無碍に展開されるべきものであり、もっというなら強迫的に言語化される必要さえない。精神科医が言語の制約を受けず、なんとなく感覚を漂わせておくようなものである。私は、診断なくとも適切な洞察があるならば、それが治療に直結するものと考えている。その適切な洞察とは、すなわち患者の存在構造を読み解くこと、平たくいうなら、患者が本来持ち合わせていて、患者自身の今後の行く末を指し示す「~らしさ」を覚知するということである。
そもそも「らしさ」の覚知とは、昔の精神科医なら当然持ち合わせていた、患者認識の前提となっていた感覚である。しかし、先述のDSM全盛に至る過程で、精神病理学(精神力動を言葉で捉え思考し、精神疾患の成り立ちを推察する学問)が過剰に抑圧され、それとともに「らしさ」の覚知も押し殺されるようになった。
精神科医の内海健は、著書『うつ病新時代―双極2型障害という病』(勉誠出版)の中で、双極2型障害の診療に際し、病前性格と気質で診ることの重要性を説いた。私の主張は、これを読み替えたものだといえる。双極2型障害とは、精神病理学不在の時代が産み落とした鬼っ子であるかもしれない。
「らしさ」の覚知の復権は、双極2型障害治療のカギとなるもの、ひいては精神科臨床における精神科医・患者双方の豊穣な官能性の回復につながるものとなるはずである。その重要性を訴えていくことは、日頃精神科臨床の危機の一端を垣間見ている私の果たすべき責務だと考える。
熊木徹夫(あいち熊木クリニック<愛知県日進市(名古屋市名東区隣)。心療内科・精神科・漢方外来>:TEL: 0561-75-5707: https://www.dr-kumaki.net/ )
<※参考>
「薬物のばらまき」はなぜ起こるのか ~<身体感覚>を導きの糸として~
臨床現場、混乱の原因となるものは(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)
初診時における精神活動(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)
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