2015年年頭の辞: 「やっと、間に合った」
<あいち熊木クリニック・あいくま心理カウンセリングに通院中のみなさまへ>
(※お年賀頂戴しました方、ありがとうございます。本状でもって挨拶に代えさせていただきます)
[ 2015年年頭の辞: 「やっと、間に合った」 ]
明けまして、おめでとうございます。
私事ですが、今年4月で、精神科医となって20周年を迎えます。
その間、本当にいろいろなことがありました。
しかし、これまでに私は、回顧録をほとんど書いていません。
それはまだ、そのようなことを物するに相応しい臨床経験十分な精神科医である、と自認できるまでには至っていなかったためです。
また、臨床の回顧録には患者さんが登場することが多いため、道義的な問題があるとも考えたからです。
しかし、今回はその”禁”を破り、小さな回顧録を記してみようと思います。
その回顧録の登場人物Tさんが、今(どこで)どうしておられるのか、思いを馳せながら・・。
(そしてTさんには、このような私の決断を許していただけることを願いながら)
私が名古屋市立大学精神科で研修していたときのことです。
医師になって2年目の秋、私にも幾人かの担当患者さんがおりました。
Tさんに初めて会ったのは、先輩精神科医の外来の一室です。
急遽呼び出され、担当医になるように命ぜられたのです。
Tさんは脳梗塞の後遺症を有しており、その診断名は「感覚性失語(ウェルニッケ失語)」でした。
感覚性失語は、一般に発話はよどみないのですが、その内容が乏しいのが特徴とされ、また聴いた言葉の理解が著しく障害されます。
外来で専門用語が飛び交う中、我関せずという感じで、ニコニコ微笑を浮かべていたのが印象的でした。
Tさんは、独り身ということでしたが、その詳細は不明でした。
その日から、私との精神科病棟における入院治療が始まりました。
私の役目は、失語の詳細をリサーチすること、そしてその失語の軽減を目指した治療を行うこと。
もしそれがかなわないなら、社会で再適応できるように、ソーシャルスキルを習得してもらうようにすることです。
多くの患者さんを持たない2年目の私は、毎日短時間でも病棟に行き、必ず彼と会うことにしました。
彼はいつもにこやかに私を迎え入れてくれ、私に何かを伝えようと懸命に話し続けてくれました。
しかし、私はそれをまた懸命に受け止めようとするのですが、理解は至難を極めます。
一語一語は普通の言葉であるのに、それが奇妙に折り重なっており、まったく文脈が追えない。
何はともあれ、彼の真意が少しでも汲めさえすればと願って、聞き続けに徹してみるのですが、やはり分からない。
その私の様子を見たTさんは、落胆・失望といった様子は見せず、ただ力なく微笑むのでした。
話される言葉についての了解の難しさを超えて、さらに絶望的にさせられたのは、新しい言葉を覚えることでした。
ST(スピーチセラピスト)もよく頑張ってくれたのですが、なかなかどうにもならない。
そんななかで、入院から2ヶ月経ったある日、私に対し初めて「熊木さん」と呼びかけてくれたときは、本当に胸に迫るものがありました。
新しい言葉を覚えてもらうことに限界を感じていた私は、その方面での関わりをあきらめ、昔の記憶の呼び戻しに心血を注ぐことにしました。
あるとき、Tさんのかつての趣味が釣りであったことを知り、何かそこに訴求できるようなアプローチはないか考えあぐねておりました。
ふと思いついたのが、魚の図鑑を見せること。
さっそく、本屋に出向き、ポケットマネーで一冊の魚図鑑を買い求めました。
そして翌日、その本をTさんにプレゼントしました。
Tさんはそれをとても喜んでくれました。
以来、魚図鑑をはさんでの”個人授業”の始まりです。
私は、単語カードも持参し、魚図鑑に出てきた魚の名前を書き付けていきました。
表に漢字(例えば、鰆・鱚・鱧・・・)、裏に読みがな(例えば、さわら・きす・はも・・・)
といった具合です。
これがとてもヒットしました。
昔の記憶を呼び覚ましたのか、難しい漢字でも、魚の名前ならどんどん覚えてくれるのです。
いつも気弱に笑うTさんの顔にも、いつしか少しばかりの自信が見えるようになりました。
しかし、いくら魚の名前が読めても、これだけでは暮らしていけない、というのもまた実社会の厳しい現実です。
Tさんの退院後の生活を考えると、私は暗澹たる思いに囚われました。
でもとりあえず、魚の名前の覚え込みにより脳がいくばくか賦活化すると信じ、それを続けました。
すると、それから3ヶ月後のテストの数値は、奇跡的な上昇を示していました!
その成果をTさんに伝えると、彼はそれを何となく解したらしく、二人で手を取り合って喜びました。
2年の研修を終える頃、私は3年目から豊橋市民病院精神科へ赴任するように申し渡されました。
いよいよ独り立ちのときです。
私は武者震いを覚えました。
しかし、これまで濃厚につきあってきた十数人の患者さんたちに、どのように別れを告げ、次のドクターにバトンタッチしたらいいのか、思案していました。
特にTさんについては、私の転勤話自体をちゃんと理解してもらえるのか、そもそもそれが問題でした。
豊橋市民病院赴任が決まった翌日から、患者さんひとりひとりに対し、その旨説明していきました。
みんな、言葉では理解してくれたようでした。
なかには泣かれた方もいて、本当に申し訳なく思いました。
しかしそのような方も最終的には気持ちを振り切って、別れの挨拶を受容してくれました。
そんななかで、Tさんにもこのことを何度も説明しました。
易しい言葉を丁寧に選び、噛んで含めるように。
その都度、Tさんはお追従の笑いを浮かべます。
ぜんぜん理解に至っていない、という不安が、私の胸をよぎります。
そして、それが最後の日まで続きました。
私は、名古屋市立大学最後の日、後ろ髪を引かれる思いで、病棟を後にしました。
明日から、私が病棟に現れなかったら、彼はどんな反応をするだろう。
「豊橋の病院」という意味、分かってくれただろうか・・
それから15年の月日が流れ、私はいくつもの病院を渡り、開業医になっていました。
いくつかの本も出し、年に幾度も新聞や雑誌の取材を受けるようになっていました。
そのようなものの一つ、週刊現代のインタビューに答えたのも、何気ない日常の一つの出来事でした。
ある男性から、あいち熊木クリニックに一本の電話がありました。
そちらに「熊木さん」というお医者さんはいるか、ということでした。
その男性が私に対し「Tさんを知っているか」といったとき、一気に当時の記憶が呼び戻されました。
「もちろん、知っている」と答えると、彼は「私は、そのTさんの昔からの知人だ」と言います。
そのTさんが「一度でいいから、熊木さんに会いたい」と話している、とのことでした。
私はその話を聞いて、嬉しさと困惑の混じった感情に囚われました。
ただ、どうしてもTさんと会わなくてはならない、と思い、会う約束をしました。
数日後、はたしてTさんが知人に伴われ、あいち熊木クリニックにやってきました。
Tさんは、そのとき77歳。
以前見たTさんからすれば、随分衰弱した様子でしたが、ニコニコ笑顔は昔のままでした。
そして彼ははっきりした声で、次のように言いました。
「やっと、間に合った」
どういうこと?と尋ねると、知人が説明を補足してくれました。
私が病棟から消えたあの春の日以来、Tさんはずっと私のことを探していたそうです。
そして最近の週刊現代で、私のインタビューを見つけたのだ、と。
記事の内容は分からなかったが、そこに(あいち熊木クリニック 熊木徹夫)と記名されていたのを見て、
「熊木はあいちのどこかに居る」と察し、知人にそのことを伝えてきたのだそうです。
「熊木さんにもう一度会いたい」と。
そして、そのときTさんは肝臓癌に侵されており、余命3ヶ月と告げられている、ということでした。
「やっと、間に合った」とは、そのような意味でした。
Tさんは相好を崩して、ボロボロのかばんから、これまたボロボロの一冊の本を取り出しました。
あのときの魚図鑑です!
そして黄ばみ尽くした魚の名前カードも!
「これでずっと勉強していた」
私は不覚にも目頭が熱くなり、涙が抑えられなくなりました。
言葉も発せられません。
しばらく、互いに沈黙した後、
「ありがとう。そして、おつかれさま」
というのがやっとでした。
帰り際、Tさんの痩せた手と握手を交わしました。
Tさんは、少しはにかんだようでした。
私は「Tさんとは、もう会うことはないのかもしれない」と思い、その手のかたちを脳裏に刻みました・・・
あれからおよそ3年の月日が経ちました。
出会いと別れは、ときに残酷です。
しかし今は、やはりTさんと会えて、そしてまた再び巡り会えて、本当に良かったと感じられるようになりました。
臨床家の生業は、やはり多くの人々、その一人一人に支えられている。
これまで精神科医として生きてこられたことに、感謝の日々です。
そして、今も、これからも、”Tさん”が私の眼前に現れ、そして消えていくのでしょう。
それこそが精神科医の人生。
私の命が終わるとき、私との出会いが、患者さんのなかでほんの一部でもいいから、温かき記憶として残されることを願って、わずかながらでも歩みを進めてゆきたい、そう思うのです。
熊木徹夫
(あいち熊木クリニック院長: https://www.dr-kumaki.net/ )
(あいくま心理カウンセリング代表: http://www.aikuma-shinri.com/ )
<※参考>
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