キラキラネームは「オンリーワンの呪縛」 ~名前が孕む”言霊”について~
http://blogos.com/article/151002/
近頃、キラキラネームについての議論がかまびすしい。
現状では、キラキラネームに対する風当たりが強く、
「親のエゴが剥き出しだ」
「キラキラネームをつけられた子は、常識がない子が多い」
などといったネガティブな意見が多く見られる。
一説に、キラキラネームをつけられた子は就職活動で不利だとも噂されている。
精神科外来も例外ではなく、キラキラネームを持つ子が最近よく来院する。
しかし、上記のような意見で十把ひとからげするのは、いささか乱暴である気がする。
また、キラキラネームをつけられた子には何ら責任はないのだから、
彼らをこのような理由で差別するようなことなど、許されてはならないだろう。
私は精神科医であるからいつも、キラキラネームをつけられた子の身になって考えてみようとする習性がある。
だから、親子の双方の視点から、このキラキラネームについて論じてみたい。
まず親の側だが、どのような気持ちでキラキラネームをつけるのだろうか。
これはよく言われるような親の自己満足と言い切るのは、少し酷であるように思う。
どんな親でも生まれてきた子供に幸せになってほしいと思うであろうし、大きな期待も込めるものだろう。
キラキラネームもその一つの表現形なのではないか。
ここで次のようなことを考える。
槇原敬之のヒットソング「世界に一つだけの花」(2003年)に、「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン(なのだから)」といった歌詞がある。
この詞が人口に膾炙したのは、これまで日本を長らく支配したナンバーワン志向を相対化し、そこから緩やかに降りることを提案しているためであろう。
これは、時代の空気を本当にうまく捉えていた。
しかし一方、新たな問題も生じてきていた。
それは「オンリーワンの呪縛」である。
ナンバーワンであることにそれほど価値はないが、オンリーワンであることには何より価値がある。
キラキラネームは、このような時代が産み落としたものだろう。
キラキラネームの中には、簡単に読めないものが多くある。
というか、常識で考えても絶対に読めない。
そこで謎解きのように、その読み方を教える時の親のご満悦な顔。
オンリーワンを目指しているのだから、簡単に読まれないものほど、”上等”なのである。
しかし、このような志向は、他者から理解されず、結果置き去りにされる。
それゆえにキラキラネームは、唯我独尊の産物と解釈され、社会共同体からはじき出されてしまう。
毎回、誰かが読むたびに、その読み方を確認しなければならない名前なのだとしたら、
やがては皆、その名を読もう(そして覚えよう)としなくなるだろう。
子にとって、これほどの苦しみはない。
また親にとっても、大きな誤算であったろう。
振り返って、名前とはどのようなものだろう。
命名権は親にあるわけだから、親が子に託した願い・思いが凝縮されたものであるに違いない。
親から子への最初の、そして最大のギフトともいえるだろう。
そしてそのギフトを受け取った子からすれば?
子は成長するにつれ、自分の与えられた名前に込められた様々な思いを理解していく。
時には、そこに自らのルーツが刻まれていることもある。
ゆえに子は、そのような親の思いを噛みしめながら、生きていくことになる。
自分はどのような存在か、またどのような存在になるべきか、
時には親の思いに従いながら、また時には親の思いに抗いながら。
いずれにせよ、名前というものからは、誰も逃れられない。
名前は、人生への激励でもあり、桎梏でもある。
名前に善し悪しなど無論ない。
どれも、親から子への深い思いが込められているのだから。
しかし、「子が苦しむ名前」というものは存在する。
ここで、私が考える「(できれば)子につけるべきではない(つけられた子が苦しまなくて済む)名前」を列挙する。
1:常識的には読めない名前
読めない名前は、常に他者に対する説明を要する。
そして、このような自己表明(存在表明)は、子本人にとってとても煩わしいものであり、また聞かされる側もうんざりする。
それゆえに結局、社会においてかえって”透明化”してしまう。
このことが、「いったい自分は何者なのか」という不安を絶えず引き起こす。
2:性別の分からない名前
幼少期の子供にとって、「僕は男の子」「私は女の子」という自己規定をすることによる安心はとても大きい。
男の子らしい名前・女の子らしい名前により”性的自覚”をもつことが、社会生活を営む基盤になると考える。
男か女か一瞥して分からない名前だと、他者から不安定な性的規定を受け続けるため、性的なアイデンティティ不安を引き起こす。
性的なアイデンティティ不安は、最も根源的なアイデンティティ不安である。
(それゆえに性同一性障害の人にとり、自分のジェンダーと逆の名前は、逆に苦しみのおおもととなるが、ここではこのことについて論じない。
また、フェミニズムにおいては、「このような性的規定こそが、男権社会を生む」というのであろうが、このことについても措く)
3:国籍不明の名前
樹里亜(じゅりあ)などの名前である。
「将来国際人として活躍するように」という願いを込められた名前であるが、両親が日本国籍の日本人であるなら、やはり「一体自分は何者なのか」不安を抱えることになる。
国籍についていちいち考えずに済むことは、幸せなことだともいえる。
4:”大きすぎる”名前
2015年に命名された(男の子の)赤ちゃん名前ランキングで、一位は大翔で、二位は悠真だという。
なかなかに素敵な名前だとは思うが、これほどに大きな名前を背負っていかねばならない子供たちは結構大変なことだろうと思う。
この名前に見合う生き方ができる人もいるであろうが、大方はあえぎあえぎ生きることになるだろう。
キラキラネームに端を発して、「子供が苦しまない名前」にまで話が延びた。
いずれにせよ、子供はもらった名前を胸に抱えながら、さまざまな時代を生き抜いていく。
名前には、言霊(ことだま)がある。
その言霊が、子の人生の通奏低音を成す。
名前が、その子の人生に有形無形の影響を及ぼし続けるのだ。
それだからこそ、なかなか難しいことであるが、親は子が今後生きていく姿に精一杯想像力を働かせ、子の幸せのため、慎重に命名したい。
熊木徹夫
(あいち熊木クリニック
<愛知県日進市(名古屋市名東区隣)。心療内科・精神科・漢方外来>
:TEL: 0561-75-5707: https://www.dr-kumaki.net/ )
<※参考>
書評『心はどこまで脳なのだろうか』(兼本浩祐著:医学書院)(雑誌「こころの科学」より転載)
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