現代型・自尊感情の低落 とは何か

2019年10月19日

摂食障害(過食症・拒食症)・醜形恐怖症・自己臭恐怖症治療から見えてくるもの

あいち熊木クリニックには、摂食障害専門外来がある。
対象となる疾患は、摂食障害(過食症・拒食症)のみならず、醜形恐怖症や自己臭恐怖症といった、思春期・青年期に特有の疾患である。

そして、そこにやってくるのは主に思春期・青年期の女子である(もちろん家族が同伴することもある)が、彼女達の自尊感情の低さには驚かされることが多い。
それも、見た目だけではなかなか分からない。

私は思春期専門の精神科医であり、20年来、摂食障害を患う人々とは多く接してきた。
そこでもやはり、自尊感情の低落した人々が多かったのだが、現代型の摂食障害患者さんとは何かが違う。

昔の自尊感情低落には、本人も強く意識する明らかなトラウマがあったものだ。
それはすなわち、幼少期の親からの執拗な虐待(性的なものも含む)やクラス全体からの陰惨ないじめであったりといったものである。

このような顕在化したトラウマを抱えた人々は、摂食障害に至るまでのストーリーを、あらかじめ自らが組み上げていることが多かった。
そのストーリーの信憑性や、悲惨さの程度を云々することの是非はともかく、とりあえず初診は、彼女たちのこういったストーリーの受容から始まった。
そこには呪詛が渦巻いており、治療者をも含む他者への猜疑・怒りが表現されていた。

翻って、現代型の摂食障害患者さんはどうか。
彼女達は見た目、決して力強くはなく、内界の鬱屈があまり見られることがなく、むしろ涼やかでさえある。
にこっと笑う顔がチャーミングであることもあり、これまでの人生で他者や社会からひどい目に遭わされてきていないことが見て取れる。

では、このような状況で、なぜ精神科診察室に現れるのか。
もちろん、現象としての摂食異常が止められないということはあるだろう。
しかし、例えば過食嘔吐の場合、食べたいだけ食べ、太らないように嘔吐で調整し、理想体重をキープし続けているのだから、他者からどのように見られるかということを第一義に考える人の場合、とりあえずそのような状況で自己充足ができそうなものである。

しかし、長年誰にも知られずそのような状況を維持し続けた後、診察室にひょっこり現れるのである。
恐らくは、あまりに小器用に問題を隠しおおせたがために、誰にも顧みられなくなった自身の寂しさに耐えられなくなってか。

ところが、そもそも自らが隠し通した問題の本質が何であったのか、分からない風情の人物もいるのである。

本文では、この“得体の知れない”現代型・自尊感情の低落について、考えてみたい。

まずは、このテーマに先立って、近代型・自尊感情の低落とは、どういうものであったのかについても考えなおしてみる。

近代は明白な競争社会であった。
日本は戦後、イケイケドンドンのモーレツ社会であり、国を挙げて坂道を駆け上がっていくかのようであった。
団塊世代・ベビーブーマーなど、人口が激しく膨れ上がったことも、それに拍車をかけた。
生まれ落ちてから、ずっと競争・競争・競争…。
受験戦争に、出世争い。

激しい下克上社会だったが、その一方、特別な家に生まれ落ちなくても、誰にも“成り上がれる”チャンスがあった。東大や、一流企業など、分かりやすいピラミッドの頂点があり、社会におけるヒエラルキーが可視化されていた。

もちろん、激しい競争社会ゆえ、敗れることはある。
しかし基本、敗れても、やり直しがきき、一生のダメージとはならない。(例えば、浪人)

また、主流を外れても、傍流で勝つこともできた。
また敗れた体験を、人生の教訓として昇華するようなナルシシズムは許容された。

何にでも勝ち負けがある社会では、落ちこぼれる苦しさはあったが、ある意味単純明快な原理で社会が動いていたといえる。

ただしこのような近代においては、一つの基盤にのみ価値を置くと、そこで敗れ落ちこぼれたときに、いよいよ退路を断たれる。その場合、うつ状態になるか、アパシー(無気力化状態)になるといったような“社会適応”を採ることが多かった。

また、当然いじめや虐待もあったが、それらは粗暴なものであっても、比較的露顕することが多い印象だった。
いじめる側・いじめられる側、いずれにも当事者意識があり、いじめる側は後に悔恨を述べ、いじめられる側は後に”トラウマ”というかたちで被害感を露わにした。
このような状況の良し悪しはともかく、それぞれの行為は意識の俎上に載せられるのが普通だった。

 

ではもう一方の「現代型・自尊感情の低落」とはどういうものか。

現代とは、ひとことで言えば、「絶対性も終焉もない時代」である。
競争社会には、絶対的な評価軸があり、誰もが目指すべき明快なゴールがあった。
すなわち、”成功のかたち”が明瞭であった。
裏を返せば、現代においては、何をどう努力しようとも、成功のかたちが見いだせない。
ということは、一見”社会的成功者”と見なされる人であっても、満足できず、幸せを感じにくい。

そもそも、生育の基盤となる学校において、成績であれ何であれ、目立つことを極度に恐れている子が多い。
KY(空気が読めない)とのレッテルは、所属する小社会での”死”を意味する。
このところ、発達障害が大きな問題として取り上げられるのも、KYが社会不適応者の烙印となるほどの息苦しい社会になってきているからである。(最近は、その小社会への過剰適応形態としての「空気読みすぎ」の発達障害者が増えている。KYと名指されることへの極度の恐怖があるからだろう)

皆が皆、”他者配慮のかたまり”となっていながらも、それがまた他者に顕示されることもなく、実にさりげない。

いじめだって、もちろんある。
ただ昔のそれより、潜伏し、陰惨である。
教師や親の伺い知らぬところで「学校裏サイト」があり、そこでの情報の流れが、一人の子の運命を決することさえある。最初はみんなで無視、そしてあたかも存在していないかのように扱う透明化…。

このような複雑な精神力動が渦巻く社会では、小さな失敗・他者との差異により、真綿で首を絞められるように衰弱していく。そして、そのような社会で、個々人は成すすべなく、じわじわ自尊感情を低落させていく…。

「自分探し」とは、そのような寄る辺ない社会からの遊離・逃避のための一つの手段であろう。

スピリチュアル・自己啓発・海外放浪……。
”どこかにある本当の自分”というファンタジーに嵌り込むことは、無責任で安直な現実逃避だとする意見もある。

しかし、これだけ自己主張を封殺された子供時代を過ごしてきた人々が、大人社会へ巣立つときには、いきなり「自己責任・自己選択が大切だ」などと取ってつけたように言われるようになるならば、面食らうのも仕方がなかろう。

このように、「現代型・自尊感情の低落」は、現在社会で生きていくなかで必然的に落とし込められていく構造になっているため、かなり深刻な問題である。
診察室に現れた気弱であるが優しく微笑む少女たちを診て、ため息が漏れそうになることがある。
彼女達は端的に”時代の犠牲者”とも言い表せない。時代は、何も指し示していないからである。

それゆえ彼女達の過食嘔吐という表現は、自分の在り方を探し当てようと考えあぐねているようでもあり、”他者の視線”という糸にからまり悶え苦しんでいるかのようでもある。
しかし、ここを越えていかねば、病理の大本は解けないままなのである。

彼女達の自尊感情は、かつてあったものが失われたのではなく、”いまだ獲得されていない”のである。
現代精神療法の重大な課題のひとつは、この「自尊感情の後天的獲得」であろう。
これはもちろん、一筋縄ではいかない。
彼女達ひとりひとりと対峙しながら、模索を続ける日々である。

<※参考>

摂食障害(過食症および拒食症<神経性大食症および神経性無食欲症>)治療のキモ ~ただのダイエットでは済まない、あなたのために~

美の競演のうちに潜む摂食障害(拒食症と過食症)

醜形恐怖症(醜貌恐怖症・身体醜形障害)治療から垣間見える、女性のナルシシズム生成の危うさ  ~鏡と化粧の意味~

現代の美の”魔術師”美容整形外科医自身が、醜形恐怖症(醜貌恐怖症・身体醜形障害)になった理由 ~美しくても逃れられない、女性ナルシシズム由来の苦しみ~

トップアイドルという苦悩と憂鬱 (精神科医・熊木徹夫の公開人生相談)

『クローゼットから溢れる洋服』 (「買い物依存症」についての臨床相談)

『死んでしまいたいくらい、寂しくて寂しくて』 (<自尊感情が低落している方>への臨床相談)

依存症治療はもはや、「対高度資本主義社会」の様相を呈している