醜形恐怖症 について
醜形恐怖症(醜貌恐怖症・身体醜形障害)治療から垣間見える、女性のナルシシズム生成の危うさ|鏡と化粧の意味
一般的に母親が子供にしつけを行う際、それが男の子であれ、女の子であれ、好き嫌いがない子になるように育てようとする。
好き嫌いという場合、一般的にはまず食べ物のことを指すだろうが、実はそれは食べ物に限ったことではない。仮にどのような人に遭遇しても、初対面で警戒心を解き、にこやかに笑えること。すなわち、一見自分の性に合わないような人物に対しても、フランクに振る舞えること。
これは、特に女性の成長過程において、社会が求める資質である。
そのような社会の”掟”をくぐり抜けて女となり、母となった女性が、そのうちに醸成した価値観は、それが意識的なものであれ無意識的なものであれ、子に引き継がれていく。
男の子はその成長過程で、社会の体制に抗い、さまざまな事柄で好き嫌いを表明するようになることが多く、また社会もそのことに寛容である。
しかし、女の子は成長していくにつれ、ますます社会(とりわけ”女性社会”)からの同調圧力が強まり、社会における諸々の事柄に対し恭順の意を示すことを求められるようになる。
「何を二十一世紀にもなって、このようなアナクロニズムを持ち出すか」と批判する向きもあるかもしれない。
しかしこれは、今現在、精神科診察室から見える風景の一端を切り出したものである。それが証拠に、会社の受付に座るのは、いつの時代も笑顔の素敵な女性である。
この役目は、幼少から笑顔でいると「かわいいよ」と言って褒められ、自らの笑顔がより魅力的で自然であるように、鏡を前にして絶えず”訓練”を積んできている女性でなければ務まらない。
女の子は物心ついた頃から、母の持つ化粧品に憧れ、鏡を前に微笑んでみせ、ちょっと背伸びをして自分の唇に、母の化粧箱から取り出した紅を引く。その姿をのぞき見た母は、「やはり女の子ねえ」といって、我が子の成長過程を穏やかに見届ける。
これが男の子だとそうはいかない。
同じようなこと(自分の顔を見てうっとり)をやっているのを母が見るやいなや、「男の子なのに、しゃっれ気出しちゃって」などと、すかさず牽制する。
その母の反応を見て、男の子は「こういうことをするのは、いけないことなのだ」と学習する。
すなわち、女の子はナルシシスティックな振る舞いをすることが母(すなわち社会的意志の反映)から容認され、男の子はそれを禁じられる。
その結果、女の子のナルシシズムは益々強化され顕在化していき、男の子のナルシシズムは隠蔽され潜伏していくことになる。
言わずもがなだが、男の子のナルシシズムも決して消滅することはない。
ただ、形を変えてしまうのである。
鏡を通し自分の姿を見ることは、男性も決して嫌いではない。
しかし、これを他者(特に女性)に見られることに戸惑いと恥じらい・恐れがあり、ときとして鏡の前に立つことに強い葛藤が生じる。鏡の誘惑にどう対峙するか、そこに常にディレンマがある。
男の子も思春期を迎えると、髪型などにとらわれ、そのセットのため長く鏡の前に立つことがある。
しかし、その時間の長さから鑑みて、驚くほど自分の”顔”そのものを見ていない。ただ、髪型という細部にこだわるばかりである。
それに対し、女の子が鏡に映った自分を見る場合、圧倒的に自分の”顔”自体を見ている。髪型にもこだわるが、それはあくまで顔という主役をどう引き立てるか、ということに主眼がある。
化粧は、ナルシシズムの表出を許された女性の特権であり、かつ責務である。
女性は、鏡の前で、自分の持ち合わせた顔のポテンシャルを計り、それを最大化させるべく日々化粧という行為を通して、自己表現の鍛錬を繰り返す。
小さな頃鏡の中の自分にうっとりしていた女の子も、成長していくにつれ、鏡を前でため息をつくようになる。幼少期、まったく気にならなかった顔のある部位についての不満・不足が、顔を見るたびどんどん強化されていく。
そのようなかたちでコンプレックスが形成されていくなら、毎日の化粧は、格闘の時間となる。自分の顔に手入れを施し、何とか社会との折り合いをつけていく。ため息まじりに試行錯誤される化粧は、いつまでたっても洗練されず、各所に戸惑いの跡が刻まれている。
それに対し、鏡を前にするたびに自信を深めた女性が、より魅力的に作り上げていく確信に満ちた化粧は、一目でそれと分かる。
たかが化粧、されど化粧である。化粧は単なる美のテクニックではない。
そこには、自尊感情が投影されている。
では大部分の女性にとって、そういった惑いの連続である化粧、それをいっそ止めてしまったなら、どうなるか。
すなわち、「すっぴん」である。
しかし、これは同性である女性達から、簡単に容認されないものである。
もしすっぴんで街を歩こうものなら、「あの子、何様?」「ふうん、自信あるのね」と牽制され、時には敵意さえ向けられる。それが先に「化粧は、女性の責務」だといった所以である。
すなわち女性は、ナルシシスティックに振る舞うことを止めたくても、もはや止めさせてもらえない。
さらに現代は、皆が「ナチュラルメイク」という超絶技巧を駆使する時代に突入している。これは「化粧しているのに、しているように見えない」というものである。
このように化粧とは、ある女性にとっては飛翔するための翼であり、またある女性にとっては女性社会の掟から逃れられぬようにするための桎梏(しっこく)である。
このような”戦い”で勝ち鬨をあげる女性もいれば、そもそも”戦い”から早々に降りる女性もいる。
そしてその一方で、”一発逆転”を狙う女性もいる。
それは醜形恐怖症(身体醜形障害・醜貌恐怖症)の女性である。
醜形恐怖症とは、自己臭恐怖症・自己視線恐怖症などと共に「思春期妄想症」(自分自身に問題があり、そのことが他者に不快感を与えていることを妄想レベルで信じ込んでしまう精神疾患)にカテゴライズされる精神疾患である。
毎日の化粧で自分の顔を”耕す”ことが絶望的なまでに難しいと落胆し、その結果、そもそもこのような顔に生まれついた不幸を愁嘆し、果てはその運命を呪うことさえある。
化粧などという手入れの繰り返しでは、身体も心も永遠に解放されない。その状況からの脱出は、美容整形手術しかない。
そのような思考にとらわれた女性である。(男性の醜形恐怖症患者さんもいるが、ここでは取り上げない。別の機会に論ずることにしたい)
醜形恐怖症の女性患者さんは、初診でよく母親を帯同する。
その母の前で、「もうこんな顔、嫌なんです」と決然と言い放つ。
隣席の母は、沈鬱な表情でだんまり。このときの母は、針のむしろだろう。
自分が生み育てた結果として今ある娘の容姿が、娘本人から全否定されているのであるから。
当然そのことは、娘本人にもよく分かっている。
そう、分かっていながら、これ見よがしに言い放つ。
これは「こんな顔に産み落としたあなたに、私の気持ちが分かるか」という、母親への怨嗟・呪詛の表現である。
これまでどれほどの苦悩を抱え、堪え忍んできたか、滔々と語られたあと、女性は涙ながらに、決まってこう口にする。
「先生、どうか整形手術を許可してください。そうでなければ、私生きていけません」
美醜というのは、文化的背景が規定するものであると同時に、極めて主観的なものである。
世間的に見ても結構かわいい子であるのに、当人は「自分が醜い」といって一歩も引かない。
そのような女性を慰めようとして、「いやいや、あなたはかわいいよ」と言ったところで、糠に釘である。
しかしだからと言って、整形手術は断固として認めるわけにはいかない。
ひとたび顔にメスを入れたが最期、そこからは地獄への一本道、何度メスを入れたところで彼女が待望した理想的な顔になることはなく、もれなく「ポリサージャリー(頻回手術症)」となっていく。
そして泥沼にはまっていき、果ては美容外科医を相手取り、医療訴訟というのがお決まりのパターンである。
鏡と化粧というアイテムは、女性の自己愛生成を力強く下支えしていくこともあれば、ときに残酷なまでに女性の自尊感情を粉々に打ち砕くこともある。
それでも女性達は、どちらに転ぶとも知れない危うさを湛えた自らのナルシシズムを精妙なバランスで維持するため、今日も化粧に励む。
醜形恐怖症の患者さんが本当に傷ついているのは、顔ではなく、そのナルシシズムである。
診察室で醜形恐怖に苦しむ患者さんと対峙するにつれ、女性として生きていくことはいかに多くの掟に規定されているか、そしてその掟をかいくぐることがいかに困難であるかという問題に逢着し、慄然とさせられるのである。
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<※参考>
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